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中学年【2】
ある日、不明熱や体調不良が続いたので病院に行った。

『自律神経失調症』

母は泣いた。
『こんな子に育てた覚えはないのに』と

やはり、中学年の私の体型は肥満だったので医者にも
肥満について注意をされている。

鼻も悪かったので耳鼻科に行ってもレントゲンを撮ると
『お宅のお子さんカナリ太ってるから歯が開いてるよ』
と先生に目の前で言われて下唇を噛んだ記憶もある。

母は『何であんただけ太ってるのかしら?父方に似たのね』
と言うだけで、特に食事に気を使うことは無かった。
むしろ、私は当時食事をそんなに採る子供ではなかったのだが・・・

中学年ともなると『肥満』は世間の目が変わってくる。
通りすがりの見知らぬ人に『うわっデブ!しかも不細工』と
何度と言われたことか。


不登校が続くと両親の不仲も酷くなっていった。
父は無理矢理でも学校に行かせない母を叱咤した。
母はそれに対して位ついた。

《・・・わたしのせいだ・・・》

と、思いつつも何も出来ない自分が居た。
不登校の時の自分は母親を独占した気分で居た。

妹二人は保育園に行っていたので昼間は母と二人。

場違いながらも、その時は嬉しかったと思う。


しかし、夜に変わると母との密度に悩む事も増えた。

元々不仲で有った両親に私の不登校が加わり余計酷い状況に
夜、泣きながらお酒を飲む母の隣でよくこの言葉を聞いた。

『お母さん・・・死にたい』
『お父さんと別れたほうが良いと思う?』
『どうしたら貴方は良くなるの?』
『お母さんおかしくなりそう・・・』

その度、母を励まし説得していた。
凄く辛かった。
母親に『死にたい』とか『おかしくなりそう・・・』とか言われても
精神的に未熟な自分は何と言って母を励ませば良いのか分からず

その頃から両親の喧嘩の仲裁に入る様にもなった。
仲裁と言っても、子供なのでどちらが悪いなんて客観視できなかったから
母を何時も守っていた。
父はそんな状況が面白くなかったであろう。
父に殴られたり、罵声をあびたりする事も増えてきた。

父にも
『デブ・ブス・馬鹿』とよく言われたものだ。

喧嘩の原因が自分にあると感じた時、無理矢理登校したこともある。
学校への通学路・・・学校へ近づく度に胃がキリキリする。
そして学校へ行くと先生は
『また太ったんじゃない?勉強もしないで食っちゃ寝ばかりしてるからよ』
テストが返ってくるたびに先生は一言添えて
『あんたみたいな馬鹿見たこと無いわ。見っとも無い両親が可愛そうね』と・・・

家に帰ってテストを母に見せると
『こんな点数とって・・・恥ずかしくないの?勉強しなさい』
『何でこんな子に育ってしまったのだろう・・・私が間違ってるの?』
と、泣き始める。

中学年の私は何処にも居場所が無かった。
生きているのに『あれ?』っと自分が生きていないような
中に浮いている・・・生きた心地がしなかった。

自業自得なのだろう・・・・しかし無気力になり、何も出来ない自分がいた。
もしかしたら、出来るのに逃げてたのかも知れないが・・・

昔を思い出しても、疑心暗鬼になる。

この頃に沢山楽しい思い出があったのだが、今は鮮明に思い出せない。
こんな状況でも笑顔の自分の時間も沢山有った筈なのだが・・・

上手く書けないが、私の中学年。
# by soul_k | 2008-03-04 00:36
中学年【1】
中学年に入りクラス替えと担任が変わった。

私の人生が一番変わった瞬間だった。
当時の担任はとても陰湿な女性教師だった。

まず、最初にクラス生徒の前で私を呼び出し
『貴方、デブね。病気になるから何とかしなさい』
と言われた事を鮮明に思い出せる。

その日からだ。
『自分は太っているんだ。ダメなんだ。』と思うようになり
男子が冷やかす言葉が胸に突き刺さる様になった。

しかし、母にその事も打ち明けられず
母はその教師と妙に仲が良かったりしていた。

もらい物の羊羹を家は羊羹を口にしない家庭だったので
母は甘党だった教師に連絡し、私に先生に渡すよう持たせた。
先生は母に『ご丁寧にありがとうございます。大好きなんですよ。』
何て言ってるくせに、私が先生に羊羹を渡した瞬間
『あんたの家、要らない物を人に寄こすのね。まぁいいけど』

先生と仲良くしているつもりの母が哀れに思えたし、
そんな事を平気で私に言う先生が大嫌いだった。

中学年に入ると学力も大分低下した。
先生の言葉に拍車が掛かる
『デブでこんな成績じゃあんた将来ないわね』
と、またもやクラス生徒の前で言われ、悔しいから勉強の質問をしても
『あんたみたいな馬鹿に教えても時間の無駄だから』と拒否された。

そして、担任を筆頭に『罵る相手は私』と決まったかの様に
男子生徒からは馬鹿にされ、女子生徒からも
『さわらぬ神に祟りなし』かのごとく、孤独な生活が始まる。
何時も前を見ていた私だったが、下を向くようになった。

母に言えなかった、三女の面倒や、仕事も忙しく、両親は不仲
しかも担任とガチンコされてももっと学校に行けなくなるのが
子供ながらに察知したので言えなかったのだ。

3年の夏休みを過ぎた頃から、朝起きるとお腹が痛くなり
引きこもりに近い生活がはじまる。
# by soul_k | 2008-03-04 00:06
低学年
小学校に入学した時は、まだ母のお腹に三女が居た。

少し話が被るかも知れないが、低学年に返ってみようと思う。

小学校低学年と言っても特に記憶が・・・
ハッキリ覚えているのが、授業で『時計の針を何時にしてください』
と言う先生の言っている事が理解できなかった。
母は時計の見方を教えてくれなかったから私だけ出来なかった記憶が
ハッキリと覚えている。

良い友達はすぐに出来た。

その子と殆ど毎日遊んでいた。
お人形ごっこや、おままごと。
自分の家には無いもので、喜んで遊んでいた。

後にその子の母親と家の母親は仲良くなっていった。


学校生活はザル耳の私だったので、男の子に体型をうんぬん言われても
全く気にせず、自分らしく生活していた。
しかし、宿題と言うものをした記憶がない。
宿題が有るけれど、母は『宿題は?宿題しなさい』とも言わなかったし
時間割を自分で揃える自覚も無い全くダメな子だった。
成績は、それでも中間くらいで収まっていたから何も言われなかった。



家庭生活は・・・低学年の時、とても嫌な思いをした事がある。

父の弟である叔父に布団で寝ている時、下半身を触られた。
とても怖くて、苦手だった叔父に下半身を触られてとても苦痛でならなかった。

その日から叔父は自分の家に遊びに来るようにと何度となく私に言った。
しかし私は両親が『遊びに行っておいで』と言っても拒否を続けた。

低学年の記憶はこんなものしか私の中に残っていない。
# by soul_k | 2008-03-03 23:55
幼い記憶【2】
私の幼少時代はとても女の子ではなかった。

幼心に『髪の毛を伸ばしたい』と思っても
母は男の子の様にザックリとショートカットにしていた。

スカートすら、卒園式と入学式に着たくらいでズボンばかり。

でも、それが我が家では当たり前何だと思っていたのだが

三女が年中位に髪を伸ばし、パーマをかけてもらっているのを見て
自分だけ・・・と、思ったことも有る。
そして、私以外の妹はスカートを履きお人形の様にされていた様な気もする。

しかし、その母も時には私を甘やかす。
それは子供ながら嬉しいひと時。

『***が好きな物だから買ってきた』
『***が好きだから沢山食べなさい』

自分の事が母の脳内に有り、自分の為に・・・と言うのが嬉しかった。

しかし、そのお陰か私は幼少の頃からカナリの肥満児だった。
近所の人には『何であんただけそんな体なんだろうね?』と言われたり
母に買ってもらったジュースを飲むと『そんなの飲むから太るんだよ』
と、言われても幼い自分は『太っている・肥満』に関して無意識だった。

私は普通の女の子だと思っていた。
母も特に幼少の頃は何にも言わなかった。
むしろ、幼少の頃にポッチャリして成長期に体型が変わるものだから・・・

でも、その感覚が後の人生で大きな問題となる。



あと、家庭に問題が有った。

父と母の不仲。
当時の私は就寝が8時。
しかし、狭いアパート

嫌でも隣の部屋から荒声を立てた喧嘩が目覚めさせる。
酷い時は、寝ている私の所に引き戸が倒れ、殴り合いをしている場面も・・・

幼い中、喧嘩をしている理由も分からない私だったが
母が父に殴られている姿を見て、父を憎む事も有った。
しかし、母も気の強い人間なので仕返しをする。

ご近所さんが仲裁に入れば、ご近所さんとも喧嘩になる始末・・・

喧嘩が収まったかと思えば、外で奇声を発しながら皿を割る母

子供ながらに、ジッと息を殺して眠りが就くのを待っていた・・・・

姉妹関係は特に思い出せるのは、
次女がとても周囲からも、親戚からも可愛がられ
三女は母の愛を受け、赤ちゃんと言うのもあり皆から愛されていた。

自分は?
・・・と思い出すが、ただ母から『お姉ちゃんだから』と言われた記憶しかない。

しかし姉妹関係は普通に喧嘩もするし、一緒に遊んだりしたと思う。
幼いながらも妹は意地悪もしたけどとっても可愛い存在だった。



・・・まぁ、子供の頃の記憶なんて大体こんなものだろう。
# by soul_k | 2008-03-03 23:27
幼い記憶【1】
幼い私の育った家庭は5人家族
父・母・私・妹2人

(現在は私に子供が2人居る。旦那に関しては色々有るので後に紹介。)


物心付いた時の家は桜並木の綺麗な町の小さなアパートで暮らしていた。
六畳2間と台所。トイレは旧式でお風呂はなし。
今は無くなってしまったが、19歳までの思い出が詰まったアパート。

母は北地方出身で、20歳で上京し飲み屋で父と出逢う。
父はハーフで国籍が日本で無かった為、母は父と入籍せず
戸籍上には【認知】と言う形で父の名前がある。

別にそれに対して恥じる気持ちはない。

3人姉妹の長女である私は勿論、妹が生まれるまでは両親を独占していたと思う。
だが、正直甘えた記憶は無い。

記憶に有るのは突然家に赤ちゃん(妹)が居た事。
何時も寝るときは母は私に背中を向け、妹を抱っこしている姿を良く思い出す。
『お姉ちゃんだから』と小さいなりに私は積極的に甘えなかった。
本当は甘えたかったと思う。もしかしたら母からすると充分に甘やかしたのかも知れない。

ただ、ひたすら言葉にも態度にもださず我慢をし1人布団で寝ていた。

特に母は『躾』をしない人だった。
後で聞くと『家事と育児と仕事でそこまで気がまわらなかった』らしい。
母は夜な夜な貴金属を自分で作る職人だったのだ。

だから、
帰宅したら手洗いうがい。朝、夜の歯磨き。外出時のハンカチとティッシュ。
お箸の持ち方etc・・・
全く教わることなく、大人になり自分で自覚し直すようにしていた。

しかし、挨拶だけはキチント出来る子供だったと思う。
母は、人当たりが良いのでその背中を見て唯一取得したものだと今思った。

今の私は子供に最低限のマナーを教えている。
上の子供も大きくなったけど、今も沢山抱きしめてあげている。

母とは違う形で家族を作りたいと感じたからだ。

・・・これからの日記に『母』は良く登場すると思う。
決して母を憎んでいたり、嫌ってはいなく今でも大切な人。
しかし、母と私の生きてきた人生で【要】になる人なのだ。


話は戻り
気がつくと家にはもう1人赤ちゃん(三女)が居た。

私の幼少期の記憶はプツリプツリとしかない。

悪い事は思い出せるけれど、良いことはあまり思い出せない。
ただ三女が生まれた時、保育園に連れて行く為に
自転車を漕いでいる父の背中がとても懐かしい。
今後出てくる父はとんでも無い人間で有るが、其の時の私にとっては
とっても『大好きなお父さん』で仕方が無かった。

だから今も父は憎めない。
# by soul_k | 2008-03-01 01:03
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